「親しみを込めて呼んだつもりだった」――その一言が、思わぬリスクに変わる時代が来ています。
2025年10月、職場の「呼び方」を巡る一つの大きな転換点となる判決が東京地裁で下されました。運送会社の営業所で、同僚や部下を「〇〇ちゃん」と呼び続けた男性の言動に対し、裁判所は明確に「セクシュアルハラスメント(セクハラ)」にあたるとの判断を示したのです。結果として、男性には精神的苦痛に対する賠償命令が出されました。
「昔からの慣習だから」「仲を深めるためのコミュニケーションだと思っていた」 こうした個人の感覚と、社会が求めるプロフェッショナルな態度の間には、今、私たちが想像する以上の大きなギャップが生まれています。この判決は、単なる一企業の事例ではなく、現代を生きるすべての社会人に「今の時代の正解」を問いかけています。
なぜ、何気ないはずの呼び方が裁判で否定されることになったのでしょうか。そこにはどのような「受け手の心理」や「組織のリスク」が隠れているのでしょうか。
今回は、この最新の裁判例をヒントに、誰もが気持ちよく働ける「呼び方の新ルール」について、一緒に紐解いていければと思います。
■ なぜ「親しみ」が「屈辱」に変わるのか? 裁判所が示した判断基準
今回の判決において、裁判所は「ちゃん付け」という行為の何が問題であったかを非常に具体的に指摘しています。そこから見えるのは、ビジネスの現場における「言葉の所有権」のあり方です。
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「呼び方の選択権」は相手にある 裁判所は、成人に対して「ちゃん」を用いることは、一般的に不快感を与えるものだと指摘しました。つまり、呼ぶ側がどれほど親しいつもりであっても、受け手がそれを望まない限り、それは「相手の人格を軽視した、一方的なラベル貼り」とみなされる可能性があります。
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「役割」ではなく「属性」を見てしまう危うさ 仕事の現場で求められているのは「プロとしての自分」です。しかし「ちゃん」付けは、相手を「女性」や「年下」という属性(プライベートな側面)に引き戻してしまいます。これが、ビジネスパーソンとしての尊厳を傷つける「屈辱」の正体と言えます。
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「拒否できない関係性」への配慮 部下は不快でも、関係悪化を恐れて笑顔で応じざるを得ない場合があります。裁判所はこの「構造的な沈黙」を容認とはみなさず、むしろその関係性を利用した心理的負荷を重く評価しました。
■ なぜ「ちゃん付け」がハラスメントになり得るのか?
裁判所の判断に加え、日々の組織運営という観点からも、以下のリスクを考える必要があります。
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プロ意識の欠如と公私の混同 職場は成果を出すための公的な場です。愛称や「ちゃん」付けは、周囲に対して「私的な関係である」という誤解を与え、組織全体の規律や公平性を揺るがす原因になります。
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無意識の上下関係の固定化 「ちゃん」と呼ぶ側には、無意識に「相手を自分より下の存在(未熟な者)」と定義する心理が働きがちです。これは相手の専門性やスキルを対等に認めない姿勢の表れと受け取られかねません。
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ジェンダーバイアスの露呈 男性を「さん・君」と呼ぶ一方で、女性だけを「ちゃん」で呼ぶのは、典型的な性差別(ジェンダーバイアス)です。これは今の時代、企業のコンプライアンス意識を厳しく問われるポイントになります。
■ 「受け手」が感じるリアルな心理
呼びかける側に悪意がなくても、受け手は言葉にできない葛藤を抱えていることがあります。
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正当に評価されていない疎外感: 子供扱いされることで、自分の実力や責任が低く見積もられていると感じ、モチベーションが低下してしまいます。
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「周囲の目」への不安: 「ひいきされている」「なれなれしい」と周囲に誤解されることを恐れ、職場で肩身の狭い思いをすることがあります。
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「断れない」ことの積み重ね: 相手が上司や年長者の場合、不快でも「やめてください」とは言い出せません。その我慢の蓄積が、突然の離職や心の不調に繋がることもあるのです。
■ 「さん付け」がもたらす組織のメリット
現在、多くの企業が推奨する「さん付け」には、リスク回避以上のポジティブな効果があります。
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心理的安全性の向上: 誰に対しても対等な敬称を使うことで、若手や部下も意見を言いやすくなり、風通しの良い組織文化が育ちます。
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優秀な人材の定着: 属性ではなく「個人の実力」を尊重する文化は、プロ意識の高い優秀な人材にとって魅力的な環境となります。
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外部からの信頼: 取引先や顧客の前でも一貫して適切な敬称を使うことは、プロ集団としての高い品格と安心感を与えます。
■ よくある疑問(FAQ)
Q:相手が「ちゃん付けで呼んでください」と言ってきた場合は?
A: 本人が希望している場合はハラスメントに該当する可能性は低いですが、ビジネスの場では避けるのが賢明です。周囲に「特定の二人だけが私的な関係にある」という不快感を与え、組織の公平性を損なう可能性があるからです。公の場では一律「さん」で呼び、個人の希望よりも「職場のプロフェッショナリズム」を優先しましょう。
Q:性別に関わらず「呼び捨て」にするのはどうですか?
A: 実は「ちゃん付け」以上に大きなリスクを孕んでいます直呼び捨ては、無意識のうちに強い上下関係や所有意識を強調するため、受け手に「尊重されていない」という心理的苦痛を与え、パワハラ(心理的攻撃)とみなされる可能性が高いからです。また、周囲に対しても「威圧的な職場である」というネガティブな印象を与えてしまいます。
Q:男性部下を「くん」で呼ぶのも避けるべきでしょうか?
A: 現在のビジネスマナーとしては「さん」への統一が強く推奨されます。「くん」は目下の人に使うニュアンスが強く、相手を「対等なパートナー」ではなく「格下」として扱っている印象を与えかねません。性別や年齢に関わらず「さん」で呼ぶのが、最もスマートでリスクのない選択です。
Q:信頼関係がある相手なら、多少の崩した呼び方も許されるのでは?
A: 「二人の間の信頼」は、第三者からは見えません。また、信頼関係があると思い込んでいるのは「呼んでいる側だけ」というケースも非常に多いのが実情です。職場という公の場では、親しさの表現を呼び方ではなく、仕事の質や対話の深さで示すことが、今の時代のスタンダードです。
親しき仲にも「リスペクト」あり
コミュニケーションにおいて大切なのは、自分がどう呼びたいかではなく、「相手がどう呼ばれたいか」を想像することではないでしょうか。
今回の裁判例が教えてくれるのは、「ちゃん付け」をコミュニケーションの潤滑油だと捉える時代が終わり、新しいステージに入ったということです。相手を一人の自立したプロフェッショナルとして尊重し、適切な距離感を保つこと。それこそが、現代の社会人に求められる、真に「心地よい関係」を築くための第一歩です。
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